対面

朝、電車から大きな富士山が見えた。
強風でよどんだものが一掃されると、こんなに近くなるものか。
実に不思議。そして、富士山が見えるということが、
いや、富士山を見たということがひとつの価値であり、自慢になるという
ことの不思議。これは決して江戸っ子・東京っ子だけの話ではないだろう。
山また山の国で育った人にとって、さらに高い山として富士山、
という憧れが存在するかどうか。たぶん、ほとんど存在しない。
でも赤瀬川原平だったかが書いていた。九州・大分に住んでいたとき、
親と一緒に東京へ行った帰りに富士山のそばを通ってきた、というだけで、
級友から尊敬・羨望のまなざしを浴びた、と。
富士山を見ることが価値である世界は、割と広範囲だと考えてもいいだろう。
とにかく富士山が見えたら、もう目が離せない。
富士山を見ているだけで、なにかが通い合ってしまう。
実に不思議。霊的存在というのか、人格的というのか。
宝永年間の大噴火では、江戸の町にもずいぶん粉塵が降り積もったようで、
新井白石なんかも日記に書いてるが、インテリらしい観察に留まるようだ。
一般の江戸町人たちは、とにかく富士山は霊的であり人格でもあったろうから、
その怒りが爆発したと思って、震えおののくほど恐かったんじゃなかろうか。

陽炎も立たず至近に富士の顔 (しょっち)