暇なわけじゃない

ykanon52132006-05-05

連休の真ん中。
しょっちは一泊で秩父に出かけて行った。
三峰山を登ることになるみたいだから、足腰の覚束ない私はパス。
幸いお天気もよく、山の新緑は美しいだろう。

私も…電車に2時間くらい乗って、たとえば上野から上越線
水上の方(谷川岳)とか中央線から小海線沿線(八ヶ岳)とか、
東海道線で伊豆の方(富士山)とか、浅草から東武で日光の方(男体山)とか、
ひたすら新緑のなかに身をうずめる為のワープを試みようと、
昨日まで考えていたのだけど。
でも、やめにした。

間近にせまったリール行きのせいか、気持ちがずっと待機状態。
長く留守にすることになるので、その準備も家のあちこちでしておかなければとも
思っている。
思っているんだけど、まだほとんど何にもしていないので、今日明日は恰好の
そういう日和だもんね。
それにしても、そういうことって取り掛かるのにほんとうに気合というか、
覚悟というかが必要。どうしてだか?
例えば、学生の頃試験の前日に、今日くらいは詰め込まなければ、とわかっている
(今日しかないんだから!)、そして、机にはついている。
それなのに、そのへんにある文庫をつい読んでしまうとか、
やらなくてもいい手芸っぽいことをしてしまうとか。


「そういうこと」というのは、「時間制限のあるどうしてもやらなければいけないこと」、
いわゆる私的には「仕事」と思っている、ということかな。
昔からそのけはあるのだから、今さら分析してみても仕方ないが、
せっぱ詰まらなければやらない、万事休す!というところまでいって
初めて取り掛かれる。
いくら集中力が並み以上(猫の並み?)などとうそぶいてみても、
時間は限られているのだから、やり終わらない、たいした仕上がりになるはずがない。
要するに大人になっても、私はまともな仕事をしていないということで、
だから長〜い休暇を過ごしているみたいな感じでず〜っといるのだろう。
それでも許されて生きているということは、何かに、誰かにあまえているということ。
ほんとうに生きているとは言えないかもしれない。
だからね、それはよくないだろう、と言ってみても生き心地はよいものだから
ついずるずると…
しかも、よくないかもしれないと思いながらよい気持ちでいるというのは、おかしな話
なので、自分で都合のよい理屈をつけて安住している。
曰く「状況がそれを許している」つまり、「今はこれでいい」。
私が「仕事人」として動くべきときが来たるまで……このままでいさせてください。


なんちゃって…今はアマゾンで購入した『五月のバラ』の入った尾崎紀世彦のCDを
繰り返し聞いている。

  忘れないで 忘れないで〜

は、サビの歌詞でありました。

  
  五月 この僕が帰るまばゆい五月
  紅いバラは思い出のバラは 君の庭に咲くだろうか
  水を花びらにあげて涙の水を
  恋のバラに悲しみのバラに 君は白いほほ寄せて

  忘れないで忘れないで 時は流れすぎても
  むせび泣いてむせび泣いて 別れる君と僕のために


なかにし礼作のこの歌詞、別れの歌であることは分かるのだが、失恋の歌
(どちらがどちらかをふった)という訳ではなさそうだし、「この僕」はどの僕で
どこに帰るのかとか、君と僕のためにバラがむせび泣いているのかとか、
誰に忘れないでと言っているのかとか、突っ込みたくなる詩。
意に染まない別れ、一緒になることはできない恋人同士なんだろう。
1日だか1週間だか1ヶ月だか1年だか、とにかく思い出の舞台は「君」の家らしい。
二人が別れても思い出のバラは「次の年もまた」咲くだろうか?
君はこの僕を思い出しながら、バラにほほ寄せて泣くんだねと、
ここはだろうかではなく確信みたいな調子。
この僕はなかなかの「おれさま」のような気がします。

とはいえ川口真の曲はとても美しく、曲にのせると歌詞も美しく、恋心が愛おしくなる。

かたづけ日和が恋日和になっちゃいました。はあ〜〜ン?(玉)