五月のバラ

五月、聖母の月。あと十日もたたずにぼくの誕生日がやてくる。
さて、五月のバラ。
「五月 この僕が帰る
 まばゆい 五月」
僕が帰るのは場所ではなく、季節であろう。バラの咲く、まばゆい五月。
五月はもう、「僕」のふるさとになってしまっているらしい。
それというのも、いつかの年の五月にとってもいいことがあったからだろう。
「紅いバラは 思い出のバラは
 君の庭に 咲くだろうか」
あのバラを、君も思いだしているだろうか。
これはもう、「僕」の願望でしかない。おそらく思いだしているのは、「僕」だけ。
「君」はきっと、思い出の中になんか生きてはいない。
「水を花びらにあげて 涙の水を 
 恋のバラに 悲しみのバラに
 君は白い ほほ寄せて」
これも「僕」の願望の続きだろう。
ここからサビに入る。
「忘れないで 忘れないで
 時は流れ過ぎても
 むせび泣いて むせび泣いて
 別れる 君と僕のために」
詩のすごさ。「別れる」と、ここだけ現在形になっている。つまり、
「僕」にとってこの別れは「永遠の現在」であるということだ。
二番の歌詞。
「五月 花開きめぐる
 二人の 五月」
五月はバラの季節、五月は君と僕、二人の季節。
なのにいま、「僕」はひとり。
「紅いバラを 美しいバラを
 僕のもとに 届けておくれ
 花に唇を寄せて 二人の花に
 恋の夢を 消えさらぬ夢を
 追い求める 一人泣いて
 (以下サビの部分繰り返し)」
狂おしいほどの追憶に生きる「僕」の姿はほとんど滑稽といってもいい。
でもだれが「僕」を笑えるというのか。
歌い終わりに繰り返される「別れる 君と僕のために」という現在形が、
聴く者の心を眠りから覚ますように響く。
この詞はなかにし礼の傑作中の傑作と思えてきた。でも解釈が間違ってたら、
それもぼくの勝手な思い込みにすぎないわけだが。(しょっち)