縄文とそれボク

ykanon52132007-02-11

玉と国際縄文学会の講演会にゆく。
去年の暮れに『縄文のメデューサ』(現代書館)を出した
田中基さんだ。
演題は「仮面来訪神とスサノオ神話」。まあこれがおもしろいったら。
縄文人の宇宙観を、土偶や土器、さらに発掘された遺跡の石の配置などから、
読み込んでゆく。帰納と演繹、というのか、
発掘資料を元にした無理のない想像、推論、大胆な仮説、その検証、
といった「生きた学問」のお手本のようなもの。
古事記に記された神話世界が遠く縄文にまでさかのぼる
日本人(地球人?)の宇宙観の反映であるという、雄大な議論なのだ。
気象や生物などを通じて循環する生命、その比喩的表現としての蛙や蛇、
そして涙や男女の性器(子宮や乳房やペニス、精液)、
それらが発掘された土器の形象そのものであったり、描かれた図像であったり。
儀式が行われたであろう場を中心とした空間の構成そのものであったり。
3時間があっという間に経ってしまった。
虎ノ門から愛宕山のほうに歩き、食事をしてから地下鉄で日比谷に出る。
それでもボクはやってない」(略称・それボク)を見る。
周防正行の13年ぶりとかいう新作だ。満員で、最前列しか空いてなかった。
裁判映画だった。そういえば去年見た「ゆれる」も後半は裁判シーンだった。
「痴漢冤罪」と、はっきりしているので、
主人公と観客だけが真実を知る立場にあり、
それ以外の作中人物は、被害者も刑事も裁判官も検事も弁護士も、
さらには親も友人も、いずれも勘違いや思い込みや、限られた材料のなかで、
判断するしかない世界(つまり、それこそが「現実」)の住人だった。
つまり、観客は主人公とともに最初から現実の外に追いやられているのであり、
主人公が「裁判官を裁けるのはボクだけ」と内心でつぶやくシーンは、
そのまま観客の立場でもあるのだが、それってなんかヘン。
「李下に冠を正さず」ということわざは、曲がった冠を直そうとする行為が、
スモモ(李)の実を盗む行為と間違われやすいから、やめたほうがいい、
というきわめて世俗的な教えだ。
片方にスモモの被害があって、もう片方にそのスモモの下で手を上げたところ
を目撃された人物がいたとしたら、当然疑われるのであって、
「それでもぼくはやっていない」といっても簡単には通用しない。
この映画の主人公はそのことすらわかっておらず、
やっていないと言い張ればそれですむと思っている能天気な坊やだ。
しかも、痴漢(セクハラなどでも)に関しては女の訴えが圧倒的に強い時世だ。
こういう主人公にむりやり一体化させられる観客も、なんだかわびしく、
不自由な気がする。観客は、もっと自由でありたい。
映画そのものはわりとよくできていたから、きっとヒットするのだろう。
でも、なにか基本的なところがおかしい気がした。(しょっち)